第3回 実録!サービス残業

第3回 実録!サービス残業

「何だ、その手袋は!」

Kさんが倉庫で作業中に突然そう怒鳴られたのは、ゴールデンウィークを間近に控えた四月下旬の事でした。

怒鳴ったのはKさんが働くS社の営業所長、Mさんです。

「この手袋が何か…?」

怒鳴られたわけも分からず、Kさんは自分がはめていた赤い軍手をしげしげと見ました。

「色だよ、色。赤なんて何のつもりだ」

「それは、ほかの作業員のと間違えないようにわざと分かりやすい色を…」

「派手なんだよ。洒落っ気を出す前に仕事をきちんとやれってこと」

「しかし…仕事はきちんとやってるつもりです」

「そっちがそのつもりでも会社はそうは見てないの。さっさと辞めてくれたほうが会社のためなんだけどね」

M所長は吐き捨てるようにそう言うと、背を向けて倉庫を出て行きました。

薄汚れた手袋を外したKさんの口からため息がもれます。M所長の本意が手袋にないことはとっくに分かっていました。実は2年ほど前、Kさんは会社から退職をしてくれないかと言われました。景気が急速に悪くなって倉庫の仕事が激減し、Kさんの給与が営業所の負担になっているというのです。しかし、子供が大学に入ったばかりだったこともありここで失業するわけにもいかず、Kさんはその申し出を受けませんでした。

そこから、所長の執拗な嫌がらせが始まったのです。朝の挨拶は無視され、取るに足らない事を怒鳴られ、営業所のお荷物とまで言われました。すべてはKさんを退職に追い込むために…。

「もう限界かもしれない…」

Kさんは肩を落として呟きました。それから2週間、とうとうKさんは会社に辞表を出したのです。

退職後にKさんは、不当解雇として会社を訴えられないかと調べ始めました。ネットを検索し、弁護士に相談し、労働基準監督署にも出向きましたが、やはり自ら辞表を出してしまった以上、少なくとも表面的には自己都合退職と判断され、解雇を、それも不当として証明するのはかなり難しい事が分かっただけでした。

ただ、調べる過程でサービス残業の請求なら可能性がある事も分かりました。実はKさんの会社は以前からサービス残業が当たり前の世界で、多い月には100時間近くの残業があるのに、手当てが一切支払われてはいなかったのです。それどころか会社には出退勤の時間を記録するものさえありませんでした。

あまりのひどさに誰かが密告したのか、一度労働基準監督署が調査に入り、そこからは判子を押すだけだった出勤簿に出退勤の時間を書くようになりましたが、それも会社から定時の時刻を書くように半ば命令され、文句も言えずに全員が従っていたのです。Kさんが働いていた営業所でも、常日頃から所長が「残業するのはその人間の個人都合だ」と言い、いくら残業をしても見て見ぬ振りでした。

しかし、Kさんは倉庫作業をしていたため、最後の荷物を出した時刻を作業日報に記載していました。これがほぼ退社時刻になるのです。さらに、何かの役に立つかもしれないと、退職の前に作業日報のコピーを取っていました。

「確かにこれは証拠と言えますが…」

Kさんの出した作業日報のコピーを見ながら、相談を受けた労働基準監督署の監督官は少し言い淀みました。

「昔はかなりの残業をされていたようですが、ここ2年間はほとんどが定時退社ですね」

「それは急速に景気が悪くなって仕事量が減りましたから。だからわたしも退職に追い込まれてしまったわけで…」

「なるほど。実は残業代の未払いが労働基準法違反なのは明らかなんですが、これを請求するには時効というものがありまして、2年間なんです」

「2年間…?」

「つまり2年前の分までは遡って請求できるんですが、それより古いと時効で権利が消えてしまうんです。残念ながらKさんの場合は残業が多かった期間の分は既に時効にかかって消滅しています」

「そんな馬鹿な!」

「まったく馬鹿な話です」

監督官が、眼を落としていた作業日報から顔を上げました。

「ですからね、時効の壁を破る方法がひとつだけあるんです」

これは実際にあった事件です。

Kさんは裁判で見事労働基準法の時効の壁を破り、未払いの残業代相当額として約250万円の賠償を受けました。この裁判でKさん側が主張したのは、労働基準法ではなく民法の不法行為責任でした。

これは「故意または過失によって他人の権利を侵害した者は、それによって発生した損害を賠償する責任がある」と言うもので、会社側が労働時間を把握する制度を持たなかった事、営業所長が残業の実態を知っていながら放置した事、労働基準監督署の指導が活かされていなかった事などから、裁判所は、Kさんの残業代の権利を会社が故意に侵害したとみなし、これが不法行為を構成しているとしたのです。

この裁判の結果から見ても明らかな通り、会社側は労働時間、特に残業時間を把握する何らかの方法を必ず制度として設ける必要があります。それはタイムカードでも、残業届でも、出勤簿に時間を記載していく方法でも何でも構いません。但し、この会社のように無理やり虚偽の時刻を書かせるような方法は当然違法です。

加えて、残業の事実を把握していながら何の制度も設けず放置していれば、それは残業を命じているのと同じである事も理解してください。残業時間を把握する制度がなく、それを放置したまま残業が行われているとすれば、それはもはや労働基準法の問題ではなく、もっと悪質な不法行為となるのです。結果、このケースのように時効の壁まで突き破られてしまいます。

また、この事件の場合、退職に至る経緯にも大いに問題があるでしょう。景気の後退によって人件費の負担が過重であったとしても、ハラスメント的な手法で労働者を退職に追い込んでしまうようなやり方は、会社にとっても絶対にプラスにはなりません。円満退職に努める事は、サービス残業請求など後々のトラブルを未然に防止する有効な手段なのです。

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島村 進(しまむら すすむ)

社会保険労務士

1961年神奈川県生まれ。近畿大学法学部法律学科を卒業後、広告代理店入社。その後、経営者団体相談員を経て、平成8年、社会保険労務士試験合格。平成11年、福岡総合労務管理事務所設立。通常の社会保険等の手続き業務に加え、企業防衛のための就業規則の作成など労務管理に関する法的整備のコンサルティング、事業承継・事業再生における労務問題対応、労働者・退職者との労使紛争解決支援、訴訟対策支援など、企業における労務の「困った」の解決に力を入れている。

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