第4回 実録!使用者責任

第4回 実録!使用者責任

「Yさん、法務局まで自転車でひとっ走り行って来てくれるかな」

不動産会社であるMハウジングに勤めるYさんが、社長からそう言われたのは、梅雨入り前の5月下旬のことでした。

「自転車って…わたしのですか?」

「そう。きみ、確か今日、自転車で来てたよね」

「今日は確かにそうですけど…」

朝、出勤のときに社長とビルの入り口でばったり会ったのを、Yさんは思い出しました。

「でもたまたまですよ。いつもはバスを使ってますから」

「今日から出来るだけ自転車で通勤してもらえるかな。仕事でも利用できるように。不動産業界はこの不況で大変だし、法務局までの地下鉄代だって馬鹿にならないから、仕事でも自転車を使ってもらいたいんだよね」

「でも自転車で来るのはけっこう大変なんですよ」

「大変なのはうちの会社の状況だって同じ。社員なら経費節減に努めるのは当然でしょう」

「…分かりました」

社長の強い口調に、しぶしぶYさんは頷きました。自転車はあくまでもYさんの私物です。それを仕事で使うことには抵抗はあったのですが、社長の言葉には逆らえませんでした。

それ以来、雨の日を除いてYさんは自転車通勤を続けました。続けてみると、意外と便利な事も分かりました。不動産業界は夜が遅く、事務のYさんも残業が当たり前なのですが、自転車なら今までのように帰りのバスの時間を心配をする必要がないからです。また、法務局や銀行、司法書士事務所などを仕事で回るときも、自転車なら確かに効率的でした。

こうして自転車通勤にも馴れたある金曜日、例によって残業で遅くなったYさんは、家路を急いでいました。朝は快晴だったのですが、夕方から雲行きが怪しくなり雨が心配だったからです。帰り際に携帯で見た天気予報でも、深夜は雨マークでした。

暗い夜道を自転車で飛ばすYさん。その頬に水滴がポツリと当たりました。降り出したか。思わず夜空を見上げた瞬間、Yさんは衝撃を感じ自転車から転げ落ちました。地面にもんどりを打って倒れたYさんの眼に映ったのは、横倒しになった自転車と、その先でうずくまる子供の姿でした。雨を感じて夜空を見上げ、前方からほんの一瞬眼を離した隙に、横のマンションから出てきた子供と歩道でぶつかったのです。

Yさんは痛む身体も構わずに、子供に駆け寄りました。

「大丈夫!?」

Yさんが抱きかかえると、子供がうっすらと眼を開け、それから大声で泣き始めました。その声に人が集まり出し、やがて救急車のサイレンも聞こえてきました。

幸い子供は、命には別状がありませんでしたが、肋骨と腕を骨折し全治2ヶ月と診断されました。非は全面的に前方不注意のYさんにあります。入院費に損害賠償、慰謝料など、先方が代理人として立てた弁護士はYさんに数百万を提示してきました。

「とても…、払えません」

Yさんはうなだれます。

「そうですか。こちらは裁判をしても構いませんが、そうなると金額はもっと上げる事になりますよ。当然、裁判費用もそちらに請求しますからね」

「そんな…」

「ずいぶん遅い時間でしたが、まさか飲酒運転だったんじゃないですよね」

「違います。仕事で遅くなってしまって」

「自転車通勤ですか」

「そうです。仕事で使う必要もありますし」

「仕事でも自転車を?」

「はい」

「ちょっと詳しく教えてもらえますか」

弁護士から聞かれるままに、Yさんは自転車通勤を始めた経緯を説明しました。

「分かりました。ちょっとあなたの会社の社長と話したいのですが、いいですか?」

「社長と、ですか? 事故の事は報告していますから、それは構いませんが…」

「では後日、連絡をして伺います」

それから3日後、弁護士が会社を訪ねて来ました。

「社長さん、Yさんから聞いたのですが、自転車通勤は社長の指示だそうですね。そのほか、仕事でも自転車を使うように命令をしたと」

「そうですが…」

会社の応接室で弁護士と向かい合った社長が、怪訝そうに頷きました。

「それがどうかしましたか?」

「実はYさんに今回の事故の賠償について話しをしましたら、とても払えないと言われまして。それなら会社に代わって払ってもらおうかと」

「何ですって!」

社長は思わず声を上げました。

「一体なぜ会社が」

「使用者責任、という言葉をご存知ですか?」

「そりゃ知ってますよ、不動産業界でもありますから。業務に関して、社員が第三者に損害を与えたときは、会社が賠償する責任があるというやつでしょう。しかし今回の事故は通勤途中じゃないですか。業務をしていたわけではないでしょう」

「自転車通勤を命令したのは社長ですよね。それはすなわち業務命令でしょう。今回の事故は、Yさんが社長に命令された自転車通勤と言う業務をしていたときに起こり、結果、わたしの依頼人に損害を与えたわけですから、当然会社は使用者責任がありますね」

「そんな…」

「そちらにも顧問の弁護士がいらっしゃるでしょうから、早急に相談なさったほうがいいですよ。こちらは訴訟でも構いませんが、子供に怪我を負わせたとなると、そちらの会社の信用問題も出てくるのではありませんか」

これは実際にあった事件です。この事件の場合は裁判にはなりませんでした。なっても会社に勝ち目はないというのが、Mハウジングの顧問弁護士の見解だったからです。

結果、会社は数百万の解決金を支払って被害者と和解し、その一部はYさんの負担として会社に分割で支払う事で結着しました。

民法に規定する「使用者責任」は、業務に関して社員が第三者に損害を与えた場合は会社が賠償の責めを負う、と言うものですが、今回のケースのように明確な業務命令があった場合だけでなく、命令と言えないまでも会社が奨励していた事実があれば、業務に直接関係しない社員の行為でも、会社は賠償の必要があると考えられています。

これがさらに悪質な、例えば飲酒運転なら、飲酒の場が会社の宴席などであったり、酔った従業員が自家用車で帰る行為を会社が黙認していただけで、この使用者責任に問われる可能性は充分にあります。

民法に規定する「使用者責任」というのは、従業員については広く会社が責任を持つという意味です。従業員が反社会的な行為や第三者に損害を与えるような行為をしないよう、監督するのが会社の義務だと理解してください。

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島村 進(しまむら すすむ)

社会保険労務士

1961年神奈川県生まれ。近畿大学法学部法律学科を卒業後、広告代理店入社。その後、経営者団体相談員を経て、平成8年、社会保険労務士試験合格。平成11年、福岡総合労務管理事務所設立。通常の社会保険等の手続き業務に加え、企業防衛のための就業規則の作成など労務管理に関する法的整備のコンサルティング、事業承継・事業再生における労務問題対応、労働者・退職者との労使紛争解決支援、訴訟対策支援など、企業における労務の「困った」の解決に力を入れている。

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