第5回 実録!メンタルヘルス不全
「おい、伝票が全然会わないぞ」
D百貨店に勤めるSさんが、上司である課長からそう言われたのは、夏の中元商戦直前の6月中旬のことでした。
「伝票って、商品伝票ですか?」
「ああ、見てみろ。仕入れ伝票と売上記録、在庫の数量が全然合わない。伝票上より実際の在庫がかなり不足している。品減りじゃないか」
「まさか…。ちょっと貸してください」
Sさんは慌てて課長の見ていた帳簿を手に取りました。
この百貨店の寝具タオル係長のSさんは、商品の仕入れから販売までの業務全般を担当しています。伝票の残高よりも実際の商品が少ない品減りとなれば、責任は当然Sさんにあるのです。
もっとも、この売り場では伝票と在庫が完全に一致する事はありません。扱うアイテム数が多い上、商品の注文書や伝票が複数の社員の手に渡るために入力ミスが起こり、さらに釣銭間違いや万引きなどもあって、200万円程度までの品減りは誤差の範囲として許容されているのです。
しかし、Sさんが帳簿と伝票を精査したところ、現実の在庫不足が8000万円以上ある事が分かりました。これでは誤差の範囲とはとても言えません。
事態を重く見た会社側の徹底調査により、Sさんが伝票を経理へ廻さずに処理していた事や、長い間在庫のチェックを怠っていた事実が明らかとなりました。さらに、それまで行っていた商品の管理方法に対する数々の規則違反も発覚したのです。
これは、Sさんの仕事上の大きなミスでした。
Sさんは会社から叱責を受けると同時に、どこでどう品不足が生じたのかを全容解明するように命じられました。
そこからSさんは毎日デスクに齧りつき、帳簿と伝票を首っ引きで照らし合わせました。さらに、会社の規則で禁止されているにもかかわらず、伝票類を自宅に持ちかえり、深夜や早朝にも調べました。
しかし、1ヶ月ほど満足な睡眠も取らずに調査しましたが、原因はまったくわかりません。
「分からない」
「どうしたらいいんだ」
「このままじゃ大変だ」
Sさんは家族や同僚に不安や憂鬱を漏らすようになり、好きなゴルフもやめ、会社を無断欠勤するまでに追い詰められました。
心配した同僚が自宅まで行き、居酒屋へ連れ出しましたが、その席でも、
「死んだって良い」
「遺書も用意した」
「子供には保険金が入る」
など愚痴とも本気ともつかないことをずっと話し続けていました。
そしてその翌日、とうとうSさんはネクタイを首に巻いて自殺を図ったのです。
奥さん宛の遺書には「大量の品減りが発覚し連日調べましたが、全容が解明できずお詫びのしようもありません。卑怯ですがもう無理です」と書かれていました。
それからしばらく経ち、ショックもさめやらない状態でしたが、奥さんは、Sさんの自殺は仕事が原因だとして労災保険の請求を行いました。
しかし、自殺は故意に死亡したものであるとして、労災保険は支給されませんでした。
奥さんは当然納得せず、不支給決定を取り消すために裁判を起こしました。
これは実際にあった事件です。
労災保険は、労働者が仕事が原因で死亡した場合は、残された遺族に保険金を支給しますが、自殺の場合は保険金目的で故意に死亡したもの見なされるため、不支給決定となるのが一般的です。
しかし、メンタルヘルス不全の結果の自殺であれば、正常な判断力が欠如した状態だったと推測され、故意ではないとみなされます。このケースも、裁判により、メンタルヘルス不全を原因とする自殺として労災保険の支給が行われる事になりました。
但し、この事件の場合に注意が必要なのは、裁判はあくまでも労災保険の支給を求めて起こされたものであり、会社の責任を追及しているわけではないと言う点です。
会社が従業員に業務を行わせるのは当然ですし、そこにミスがあれば叱責をするのも当然です。当然の事を行っている限り、会社には責任がないと言えるのです。このケースは、そもそもの問題は、商品管理をきちんと行わず、規則違反をしていたSさんにあり、徹底解明を会社が命じるのは当然ですし、叱責をするのも当然と言えます。あいまいなまま放置すれば事業としての態をなさないからです。
逆に言えば、当然ではない事を会社がすれば大きな問題になります。業務命令だからと言って極端な過重労働を行わせたり、叱責の枠を超えてハラスメントと呼べるほどエスカレートすれば、とうぜん許されないでしょう。法律と常識を無視した労務管理を行ない、結果として労働者が自殺などをした場合は、会社は大きな責任を負うことになるのです。















