「ボクがオヤジの会社を継がなかった理由~家族の葛藤と2代目後継者の選択~」(2009/8/28開催)

「ボクがオヤジの会社を継がなかった理由~家族の葛藤と2代目後継者の選択~」(2009/8/28開催)

世代交代において、バトンを渡す側と渡される側双方が「分かってくれているだろう」「理解しているはずだ」と思い込んで、行き違いが生じ、スムーズに事業承継できないケースがあります。特に親族間での事業承継を成功させるには、お互いが対話することを心掛けて理解を深める努力が必要です。
今回は後継者として父親が設立した会社に就職した後、最終的に父親の会社を退職し、別の道を選んだ経験を持つ講師をお招きし、実際にご自身の体験をもとにご講演いただきます。

本文の後ろに添付資料がございます。印刷してご利用ください。

事業承継 地域力連携拠点事業

皆さんこんにちは。私はUBI株式会社の役員を務めております、瀧本憲治と申します。今日は東京から朝参りましたが、この会場に着くと、国際会議場のような形になっていまして、こんなにすごい所でやるんだなと思って、緊張しています。現在37歳です。昭和47年生まれですが、今日は経営の大先輩の皆さま方を前に、こういうお話をさせていただくという機会を与りまして、普段私はこういったことが本業ではありませんので、お聞き苦しい点や、生意気なことを口走ることもあるかもしれませんが、慣れてないものということでお許しいただければと思います。本来は、私の父親と私が二人で講演をすると面白いみたいで、色々なところに今までも呼ばれてきたんですけれど、今回は私だけということで、お話をさせていただきます。

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まず、エアーリンクという会社を父親が創業いたしまして、その会社に私が入社し、その後色々ありまして、退職しました。そのエアーリンクがM&A、株式売却をし、売却という言葉はちょっと嫌なんですが、要するに他の方に経営をしていただいて、私ども家族は、その会社と資本的には関係のない存在になったというのが、一連のストーリーでございます。今日は、普段私の父親が呼ばれてお話しする際に使っているこの資料と、あとは私がこのA3の紙1枚で、お話を進めさせていただきたいと思います。

この写真を見ていただきますと、これはイタリアのピサの斜塔ですが、私はまだ小学生で、一番左に写っています。まだ若い頃の両親と、私の妹と弟の、5人家族です。私の父親と母親が大学生の時に私が産まれて、二人は学生結婚をしました。私が産まれたのは母親が大学の時で、母は留年をしたそうです。またその後、年子で下が産まれたので大変だったそうです。父親は、大学を卒業はしていましたが就職したばかりで、それで私たち家族が出来ていくわけです。父親は一橋大学を卒業して、当時新日鉄などにも受かったようですが、どうも自分でビジネスのようなことをやってみたいということで、大学時代に手伝いをしていた大学生協に、そのまま就職しました。父はその後、私たちを育てながら色々な事業を大学生協の中で立ち上げていきます。

その一つが旅行事業です。まだ1970年代ですから、大学生がヨーロッパやアメリカに行きたくても、高くてなかなか行けない時代でした。そもそも、日本人がなかなか海外に行けない時代だったのではないでしょうか。当時は1970年代の初頭でしたが、ただ学生さんは夏や冬は休みですから、旅行に行く時期は決まっています。そこで、色々な航空会社と大学生協にいる私の父親が交渉して、チャーター便を飛ばそうということになりました。ヨーロッパに普通に行けば高いけれど、チャーター便で人を集めてしまえば、一人当たりの旅行運賃は非常に割安になるということで、ヨーロッパにどんどんチャーター便を飛ばすような事業を、大学生協の中でやっていたそうです。そこで色々なトラブルなどもあり、彼は世界中を飛び回っていたようです。旅行事業以外にも、共済という保険のような商品を大学生協で扱っています。学生さんが大学に入学されると、色々な所に下宿される方がいらっしゃいます。その下宿される方の損害保険の部分について、共済という形で保険のような商品を売るという、その事業も私の父が立ち上げたようです。

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実は、父親がチャーター便を飛ばす仕事をしている時に、日本にガイドブックのようなものがまだあまりない時代でした。まだ「地球の歩き方」などもない時代です。当時、アメリカで時刻表を出版しているトーマス・クックという人がいたのですが、その方が「ヨーロッパ一日10ドルの旅」という本を発刊なさっていて、その本を訳して日本で発刊しようということを思いついたそうです。そこで父はトーマス・クックに会いにいき、「これを訳させてくれ」とお願いしたそうです。母親はさきほど言いましたように、私たち三人が年子で産まれていますから、家に居ざるを得ないので、専業主婦でした。母親は翻訳などが出来たようなので、ではその本の翻訳をやってみよう、ということになりました。私たちは東京の国立という、一橋大学の近くの公団に住んでいまして、そこの台所で私の父親と母親がガイドブックを訳したり地図を書いたりして、それを出版していくことになります。

お手元の資料の、このページをちょっと捲っていただくと、「ヨーロッパの格安旅行を提唱したガイドブックを出版していく」という箇所があります。そこに写真が載っていますけれど、最初はヨーロッパ一日10ドルだったんですが、非常なインフレで「ヨーロッパ一日3000円」とか、5000円、6000円というふうに、毎年変わっていったそうです。また、ガイドブックがあまりない時代ですので、こういうものが多少売れたというふうに聞いています。よく、本を買うとハガキが中に入っていますが、そのハガキに著者への質問などを書けるスペースがあって、その質問を書いたハガキが結構返ってきたそうです。質問の中で一番多かったのは、「現地での情報は分かったけれども、航空券を安く買うにはどうしたらいいのか」というもので、それが最初は一日一通や二通程度だったのが、そのうち一日50通くらい来るようになりました。その頃、父親はまだサラリーマンだったのですが、それだったらこの人たちを対象に旅行会社を始めるか、ということで始めたのが、エアーリンク創業の経緯です。

そういうことがありまして、最初はお金がないので、読者ハガキを出してくれた方々を対象に、少しずつ会費という形でお金を出してもらい、会員制の旅行会社として旅行会社のビジネスを展開するようになっていくわけです。会員制旅行会社というのがエアーリンクの長い間の特徴になっていきます。データベース・マーケティングといいまして、読者の住所や氏名・年齢などが全て分かりますので、その情報をデータとして蓄積していって、その人たちに会報誌を送って新しい情報を提供します。その情報にお客さまが反応して下さり、次に行くご旅行の時にも、航空券やツアーなどはエアーリンクに依頼していただくという形でした。最初から会員制旅行会社だったのですが、会員になるのが有料でした。何故そういうことをしたかというと、今でこそHISさんなどは格安航空券ということで市民権を得ていますけれど、当時は要するに団体旅行のバラ売りだったのです。もちろん合法なのですが、格安航空券というもの自体が、少しアンダーテーブルな感じの商品でした。ですから、会員にしか売らないという方便としても、この会員制というシステムを使ったということです。

エアーリンクは会員制の旅行会社として出発しまして、会報誌を発行してリピーターになっていただいて、成り立っていたビジネスでした。「創業時の話」という所に移りますけれど、父親は大学生協にいて、母親は専業主婦をしていましたので、父親も完全に脱サラすることにリスクを感じたのでしょう、母親にアパートの一室で旅行会社を立ち上げてもらって、そこで旅行会社としてやっていきます。最終的に、この会社は売ることになるのですが、実は創業の時も会社を買っています。旅行会社は、都知事の免許などが必要な免許商売ですが、旅行会社を売りたいという知人がたまたまいたそうで、その人の資本金500万円程度の会社を100万円で購入して、会社組織としてやっていくことになります。

それで、先ほどのエアーリンクという会社が、最初はアパートで、ここに書いていますように、社員一名、バイト一名、そして社長の3人でスタートしました。社長というのが私の母親です。本の読者を中心にした旅行会社ということで、事業を展開してまいります。この時はやはり、波が来ていたのでしょう。格安航空券というものが世に出て行く、ちょうど盛り上がりの時だったのです。HISさんの社長は澤田さんという方で、澤田さんはHISを京都で始められていて、もうこの時には、売り上げがうちの会社の20倍上をいっていました。要するに、そういう波が来た時に、このビジネスを私の父親と母親も始めたということです。

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最初はアパートで始めたのですが、景気が良い。しかも旅行会社は、お金の回りがとてもいいんです。何故かというと、予約をするのでお客さんから旅行代金を先に振り込んでもらい、実際の支払いは、お客さんが旅行なさった後に仕入れ業者に払います。そういうわけで、キャッシュフローがとてもいいんです。だから、赤字でも潰れない、お金は回るというビジネスでした。また、格安航空券は儲かってはいましたが、広告なども出してガンガン伸びている時ですから、実は中々安定しない部分もありました。

(ビジネスが)非常に成長していくわけですが、私と妹、弟が育っていくのと、この会社が育っていくのとがほとんどリンクしていくわけです。

母親の頑張り、苦しさというのもありますが、この時は事業がとても成長していますから、お客さんのデータベースの構築が必要でした。今でこそデータベースのソフトは安く買えますが、当時はそういったものがなかなか無くて、今は有名な、オラクルというデータベースの会社がありますが、オラクルのソフトとIBMのデータベースのサーバーを買って、当時で6000万円くらいを投資しました。それだけの金額を投資してしまったので、ソフトは自分で作るしかないと、母親が勉強してソフトを作って、伸びる体制の管理の部分を支えました。これは後日談ですが、オラクルの社員から、「あなたのお母さんはすごい、あの当時にあんなことをやったということで、結構有名だったよ」ということを言っていただいたこともあります。

私が高校を中退したり、会社も成長していましたが、社員さんが成長期になかなか追いついてこないので苦労が多く、家にもなかなか帰ってこれず、母親は徹夜続きで体を壊して入院したりと、色々なことがこの頃にはありました。では、会社の評価はどうたったかというと、評価も良かったですし、旅行業界の格付けのようなものがあるのですが、こちらの資料のこのページに載っています通り、三ツ星をいただきました。エアーリンクという会社は、信頼できるプロとしての対応をしてくれると、こういう格付けをしてもらってすごく嬉しかったです。あまり大々的ではありませんが、そういった形で支持を得ていました。売り上げは、私がいた最盛期で110億円くらいでした。実際には粗利の部分が売り上げなので、9億円とかその程度で、粗利率が10%くらいの商売です。

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会社の成長期に私が入社するわけですが、SARSやテロなど、色々なことが起きました。今で言うインフルエンザのようなものです。湾岸戦争が勃発したりと、旅行会社は大変でした。そういった大変化が毎年のようにあって、本当に安定しませんでした。渡航者は1500万人ですとか、徐々に増えていました。渡航者そのものは増える波の中にあって、地震が発生したり、オーストラリアで事故が起きたりと色々なことがあって、そういうことに影響されながら、売り上げが伸びたり減ったりしていた時期でした。

フランチャイズの展開もしました。直営で出すには色々とお金もかかるし、人材も各地に募集したりすると管理費がかかるので、ではオーナーシップ制度をとってフランチャイズ展開しようと、95年からフランチャイズを展開して、全国で23店舗くらいまで増えました。現在は縮小していますけれど、一番最盛期では23店舗くらいを出店していました。

母親が代表取締役社長としてほとんどの仕事をやっていましたので、オペレーションのトップとしての母親の大変さを、大学時代の私は、大変だなと思いながらいつも見ていました。いつか母親を助けることができればいいなと感じながら、過ごしていました。セブン-イレブン・ジャパンに入ってからも何回か実家には戻っていましたが、あるとき食事中に、今度配属になるという話をしました。本格配属になると、日本全国に飛ばされるという話をしましたら、父親が、自分の会社に来ないかと誘いました。私も母親を助けたいという気持ちもありましたので、親の会社に入社することにしました。

親の会社に入社しました。その時は新宿西口の真正面のビルに本店が入っていましたが、そこに行くと総務部長にいきなり、「君は、大阪支店に配属です」と言われました。いつから配属かと尋ねると、「今日からです」とのことでした。その日はさすがに難しかったので、次の日に大阪支店に行きまして、大阪支店に配属ということになりました。父親に言われたのは、「大阪支店は6000万円の赤字」ということでした。そこを何とかしてきてほしいと言われ、大阪支店に行くことになりました。赤字とか黒字とかは、私にはよく分からなかったのですが、とにかく一度入ったからには、社員のかたに認められないといけないと思いました。会員制旅行会社ですから、お客さまから電話がかかってきます。その電話の応対をして、旅行の航空券を決めていくということをして、月に150人から200人くらい送客するわけです。それで、粗利が幾らというのが発表されるのです。その当時、既に店舗数がかなりありまして、社員数も多かったので、そこで一位にならなければいけないと一生懸命やるんですが、一位になったこともありますが、ほとんど一位にはなれませんでした。ただ、付随する保険なども販売させてもらい、その部門で少し認められるようになったかなという感じでした。

そのようなことをしていますと、中小企業ですから、辞める人も結構いました。課長クラスの人が辞めて、大阪支店は上司が段々いなくなっていくんです。旅行会社で女性が多く、リーダーシップをとれる人材というのがあまりいなかったので、私が(責任者として)大阪支店をやっていくことになりました。具体的には、関空発の航空券の仕入れなど、航空券の卸し会社と折衝しながら航空券を買い、エイビーロードなどに原稿を書くと、電話がジャンジャン鳴るという流れです。そこで、うまく広告費と経費のバランスを取っていったところ、たまたまですが、この6000万円あった赤字がゼロになりました。一応、6000万円の赤字を解消したということになっていますけれど、別にたいしたことではなくて、DMなどの広告費と固定費をコントロールしたら、たまたま(利益が)上ったということです。

会社の方針などは当然本店から情報が流されてくるのですが、当時、まだ私が大阪にいる頃から、何故こんなことをやるのか、今は拡張するべき時ではないのに、何故FC展開をするのか、しかも辺鄙な場所に店を出したりするので、大丈夫なのかなと考えていました。私が入社した頃には、創業当初のビジネスモデルである、有料の会員制組織の旅行会社というものが、もう流行らない状況でした。完全に格安航空券というものが市場で認知されていましたので、航空券を買うのに何故お金をかけて会員にならなければいけないのかという状況でした。私は、その辺については意見がありまして、電話で母親に、父が言っていることは現場の状況と合わないのではないかと話したりしていました。

その頃私は、父親と対立してしまい、どうしようかと悩んでいました。そこに、社外取締役を務めて下さっていた女性が、「あんまりぶつかってばかりでもいけないから、一度矛先を変えて、研修にでも行ってみない?」と提案してくれました。そこで研修に行くことにしました。私はそこで、父親を変えることは出来ない、自分が変わるしかない、ということを教えていただきました。それはその通りなのですが、自分を変えるのがなかなか難しいわけです。

その研修所で、やはり経営理念が大事だと聞きました。そういえば、自分の会社で経営理念という言葉を聞いたことがないと思い、会社で親に経営理念を聞くと、「別にない」という答えでした。理念的な気持ちで経営を続けてきたことは確かですが、文字にはしていませんでした。そういうことを研修所で強く言われて、経営理念がないせいで自分の会社は駄目なんだと誤解をしてしまい、また衝突することになりました。多分、皆さんにはこのシチュエーションがお分かりになっていただけると思います。

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実は、私は今UBIという会社に所属しています。ご案内にはアーバンベネフィットと記載されていますが、今年の4月に商号変更をいたしまして、今ではUBIという会社です。このUBIのオーナーが木村といいますが、その研修所のトレーナーをやっていた人が木村で、当時はこんなことになるとは思っていませんでしたが、そこで私はお世話になりました。私が今の会社に入ったきっかけは、その研修所で木村という人と出会ったことでした。

会社の事業の話に戻りますが、先ほど言いましたように、結局父親とは顔を合わせれば喧嘩や言い争いという形になっていきます。面白いのは、私と父の二人だと、あまり言い争いはしないんですが、母が間に入っていると、母に認められたくて言い合いしている、そういう感じがありました。そういうわけで、一番大変なのは母だったと思います。当初のビジネスモデルの転換が必要なのに、この転換・改革ができていないから、結果的に赤字なんだというふうに結論付けていく、そのことで対立をしていました。

一方、それで(業績が)良くなったかというと、旅行会社はほとんどが赤字なんです。特徴のある旅行会社以外は、大体赤字だと思います。それは何故かというと、先ほども申し上げた通り、キャッシュフローのいいビジネスなので、売り上げさえ上っていれば、毎年赤字でも死にはしないんです。PLは赤字だけれど、別にキャッシュポジションは下がりませんので、死にはしない。そうするとどういうことが起こるかというと、値引き合戦が始まります。こっちは一応理屈でエイビーロードなどに値段を出しているんですが、その理屈を超えた値段が出てきてしまう、そうなると、売値の部分では対抗はできません。そこで、もっと付加価値の高いものを売っていかなければいけないというふうに、次はシフトしていくわけですが、主戦場が格安航空券で、この格安航空券は多分当時60億円くらいあったと思います。そこを違う商品にもっていくには、ものすごい力が必要でしたし、実はうちの社員さんはほとんど格安航空券しか売ったことがなかったので、その社員さんをどういうふうに編成し、どういうふうに導けば、付加価値の高い方に連れて行けるかということが、次の私の課題でした。私は、これはかなり難しいなと思っていました。父親は、格安航空券のボリュームを増やせばいいという考え方でした。

そこで、その(資料の)下にあります通り、私はニューヨークに視察に行きました。格安航空券というものが、この先どうなるのかと思い、ある旅行会社の社長さんがニューヨークに定期的に視察に行っていたので、鞄持ちで連れて行ってくださいとその社長に頼み込んで、一緒に連れて行ってもらいました。通訳の人を雇って、アポを取ったところもあれば、飛び込みで入ったところもありますが、向こうの旅行会社に行って、白人、黒人、黄色人種の経営者に、事業はどうですかとか、最近景気はどうですかとインタビューをしました。私はそれを聞いていて、これは駄目だと思いました。どういうことかと言いますと、当時うちの会社の航空券の手数料は、ノーマル運賃を発券すると、9%を航空会社からもらえました。その時のニューヨークでは、すでに5%でした。多分、これももうすぐ3%になるよと向こうの経営者のかたが言っていて、きっと日本もそうなるなと思いました。実際に、もうそうなっています。今では航空会社自体がぐっと値段を下げましたが、当時はまだ航空会社自体は値段を下げていませんでしたので、我々のような会社が存在できたのですが、アメリカでは航空会社との戦いになっていました。別に悪い意味ではありませんが、どちらかというとロウアー(下層)の人たちがやるようなビジネスという感じでした。では、日本に帰ってどうしたらいいかと考えたときに、格安航空券のビジネスを続けていったら絶対にいけないと思いました。そこで考えついた、化石発掘ツアーというものを行いました。

この業界には、JTB、近畿日本ツーリスト、日本旅行、HISのようなガリバー会社と、うちの会社のような格安航空券を扱っている、皆さんがあまり知らないような小さな会社、そしてその他に、付加価値の高いツアーをやっている旅行会社がありました。そこは例えば、ヨーロッパにビジネスクラスで行って、すごいホテルに泊まって、全部アテンドもする100万円、200万円のツアーや、500万円のクルージングなどの分野で儲かっている、しかも少数精鋭で社員数が少なく、そして付加価値が高い。この会社は既に上場していました。私は格安航空券から、この付加価値の高い方に行くしかないと思いまして、それで皆がやっていないことで、付加価値の高いものはないかと考えた時に、この化石の発掘ツアーは面白いなと思いました。アメリカのユタ州にある、南ユタ州立大学と提携しまして、そこに子どもたちを送るという内容です。うちの会社は保険事業もやっていますので、保険の方のデータベースを持っています。そこにアピールしていくわけです。そうすると、先ほど保険の方は、大学生の下宿人の親が相手だと言いましたが、中学生の保険や小学生の保険など、うちも色々と展開していましたので、小・中学生を対象に(宣伝を)やってみると、予約が大量に入り、皆さん、全国から説明会に来て下さいました。アメリカに1週間~10日くらいで50万円くらいでした。エコノミーで行くんですが、化石を発掘したり、馬に乗ったり、南ユタ州立大学で英会話を習ったり、ホームステイをさせたりと、そういう付加価値の高いツアーは売れる、これからどんどんやろうと思いましたが、そこに「ちょっと待った」が父親から入りました。これは自分たちの路線ではないというのが理由でした。

もう辞めようとその時に思いました。「もう勝手にやって下さい、俺はもう付き合っていられない」と言って、辞めようと思って一年くらいしてから、実際に辞めました。

この頃が一番辛かったです。入社してから、私と同年代くらいの社員さんに対して、色々な夢などを語って、そこまで引っ張ってきたわけです。色々と問題もあったし課題もあったけれど、そういうビジョンを見せて引っ張ってきました。こうやって儲けて、給料をこういうふうにしようと、そんなことをやってきている状況で、自分が辞めるわけにはいかないなと、そんな状態だったんですけれど、もう仕方がないと思いました。(資料に)退職の決意と書いていますが、社員さんとの約束などを考えると、本当に夜、涙が出てきました。一旦会社の外に出るのですが、皆さんのところもそうかもしれませんが、エアーリンクのファミリー会社の、株式会社瀧本など色々とありまして、そっちにまた戻ってきたりして、自分でも弱虫だなと思います。引き返してまた2,3ヶ月いて、やっぱりまたやめようと思いました。最後は母親に引導を渡されました。「お父さんの言うことが聞けないんだったらこの会社をやめなさい。この会社は、私とお父さんでやってきたんだから、あなたも色々と意見はあるだろうけど、自分でやってみなさい」と母親に言われました。では自分でやってみるかと思い、退職から困窮と(資料に)書いてありますが、そういう時代を迎えます。

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私は色々と経営の勉強をしてきましたから、誰かに使われるのは嫌だなと思いました。就職しないで、お金を稼いで暮らすにはどうしたらいいかと思い、何か資格でも取ろうかなと、浅はかな考えを持ちました。その時は、資格を取れば何とかなると思ったのです。大学時代に簿記や会計士の勉強を多少はしていましたから、昔取った杵柄で、中小企業診断士の資格を取ろうと考えました。大した資格ではないのですが、その時はこれを取得すれば何とかなると思っていました。一応資格試験には受かりましたが、その頃後輩から今何をしているのかと聞かれ、親の会社を辞めて資格でも取ってコンサルにでもなろうかと思っていると話すと、「米国の会計士はおいしいですよ」と言われました。どういうふうにおいしいのか尋ねると、結構取得が簡単だということでした。本当かなと思いましたが意外と簡単で、これにも受かりました。これで何とかなると思いましたが、実際には何ともなりませんでした。全然お金が入ってこなくて、困りました。一円会社などが当時出来たばかりで、1000万円がなくても株式会社ができるようになった頃だったので、コンサルタント業で会社を登記しました。私も公証人役場で定款を認証してもらったりして、会社はこうやって作るんだなと思いました。しかし全然売れなくて困った時期が一年弱くらいありました。そうは言っても、多少は営業をしますから、お客さんも出来て、適当なことを言いながらお金を少しずつもらっていました。その顧客の一つが輸入建材の会社で、イギリスから面白いスイッチを輸入していまして、そのスイッチを事業としてもっと広げたいとのことでしたので、私が役員として入りましょうと申し出て、役員としてイギリスに行って交渉してきたり、英語はあまりしゃべれませんが、そういうことをしていました。

やがて、今度は警備会社を立ち上げるというお客さんがいまして、手伝ってくれと言われたので、では私もやりましょうと、その会社に参加しました。その会社は今でもありますが、人材派遣会社で、ガードマンを派遣していました。当時、インターネットで「ガードマン」を検索すると、その会社のホームページがヒットするようにしますと、仕事の依頼がものすごくたくさん来ました。仕事はあるけれど警備員がいないので、私は毎日ハローワークに行って、職を紹介したりしていました。何とかこれで、ご飯が食べられるようになっていくわけです。しかし、仕事は取れるけれども警備員さんがいないので、そうすると私が警備員として行くしかないんです。この場に警備会社の関係者の方がいらっしゃったら申し訳ないんですが、私は、警備会社をやってはいますが、警備員をやるのはすごく嫌なんです。何故かというと仕事が忙しすぎて、夜は警備員の仕事をして、朝になるとお客さんと話をしたり、人を手配したりして、それでまた夜になると警備員の仕事をしていると死にそうになりました。こんな仕事は嫌だと思いまして、そこで冷静に考えてみました。人材派遣がもうかるのは分かったけれど、私もお金が無かったですから、世の中の構造って何だろうと考え、やっぱり銀行が一番もうかる仕組みになっているんだなと思いました。

今の会社のオーナーである木村と毎年会っていましたから、そういえば木村さんのところは不動産会社だったなと思いつきました。金融や不動産関係の会社に行きたいなと思い、六甲山の頂上で木村さんに、木村さんの会社で修行させてほしいとお願いしたところ、では来いと言ってもらえました。そこで警備会社を抜けさせてもらい、そして現在の会社に入ることになりました。最初は社員として入社しまして、今は役員をしております。ですから、ここに書いています通り、やっと警備会社でご飯は食べられるようになりましたが、仕事としては、自分のこの折角の一生をこのままでいいのかと思いまして、今の会社に移ることになりました。今では非常に満足しています。この会社に入った後、親から電話がありまして、私の両親の会社、エアーリンクを売るかもしれないと聞かされました。

皆さん、DeNAという会社をご存知でしょうか。モバゲータウンなど、モバイル系のゲームで、今飛ぶ鳥を落とす勢いの企業グループですが、この会社から、声がかかったと親からの電話で知りました。私もあまりDeNAさんのことは知らなかったのですが、DeNAさんは旅行会社を一社自分たちでやってみて、失敗していたようです。そこで、一回失敗したのでM&Aでいこうということだったそうです。そうすると、モバイルやインターネットの世界でもシナジーが働くのではないかなと思いました。

DeNAの社長は南場さんという新進気鋭の社長さんで、女性のかたです。たまたまこの南場さんは、私の母親の大学の後輩でした。歳は離れているので関係はないんですが、大学の後輩だったということもあり、また両名とも若かりし頃に日経ベンチャー賞か何かの女性部門を受賞しているということもあり、両親はその南場さんという方のパーソナリティーやビジョンも非常に気に入ったようです。そこで、売ろうということになりました。一番グッときた言葉は何だったかと親に聞きますと、「瀧本さんたちのビジョンを私がやります」ということを南場さんが言ってくれたことが、やはり大きかったそうです。私の父も母も、真面目で誠実な人間ですから、ちゃんと理念的な経営をしてきているわけです。「こうだったらいいな」と思うビジョンが一応ありまして、それを実現してくれるのは南場さんかもしれないと、その時に思えたそうです。だから、息子に継がせるよりも、南場さんの方がいいなということで、その通りになりました。今から3年前の2006年6月に、DeNAさんに全株を引き取っていただきました。

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当時のエアーリンクの自己資本をちょっとこっちの資料で見てみます。このグラフがエアーリンクの売り上げ、取扱高や経常利益、純資産となっていまして、取扱高がぐっと上っています。私が(入社したのが)95,6年でしたが、この時にかなり伸びています。支店も増やして取り扱いもかなり伸ばし、この時にベンチャーキャピタルを入れています。上場するということを当時は言っていましたら、ベンチャーキャピタルとしてオリックスさんも入ったし、日本生命のニッセイキャピタルというところも入りましたし、船井総合研究所のベンチャーキャピタルも入っていました。それで、2,3億を私の父親が調達していましたので、純資産額がかなり上っています。この赤い三角が純資産ですが、当時はぐっと上って、でもその後は、純資産は少ししか増えていません。納税して純資産を貯めたという経営ではありません。利益の方も、経常利益1億4千300万円がピークです。しかも無借金です。私が入社したときに、簿記が得意ですから、すぐにPLとかBSとかキャッシュフローを見ました。そうすると、ベンチャーキャピタルも入っているし、無借金だし、利益も結構あるし、いいなと思っていました。しかし、最後の方はかなり下がってきていました。2002年や2003年ごろに、SARSや色々なことがありまして、業績も苦しみました。純資産が最終的に6億8千万円くらいになっています。

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また売却の際には、デューデリジェンスというものを、買う側が調べます。評価をするということだそうですが、弁護士や会計士、税理士5,6人が(売却対象の会社に)来ます。

企業とは何かということに話を移していこうと思いますが、現象面だけを見ると、自分で創業した会社を長男に継がせようと思ったけれど反りが合わなくて、息子はどこかへ行ってしまったし、このまま行くと社員さんに継がせるか、全然違う人に継いでもらうかの、どちらかしかないという時に、株をどうするかという問題もあるわけです。経営の問題と所有の問題です。それを一気に解決するために、私の両親はこういう道を決断したわけですが、これはそれぞれの考え方によると思います。何が良くて、何が悪いということではなく、その時のベストの選択肢を選べばいいと思います。

母親は私たち3人の子どもがいますが、この会社を4人目の娘だと思っているんです。一番手がかかるじゃじゃ馬娘がエアーリンクという会社で、自分が一番手塩にかけて育ててきた会社をお譲りするということで、非常に悲しい気持ちもあり、感極まっているようでした。一応、父親も母親も、息子に継がせるのがベストなシナリオだけれど、ビジョンの方が大事で、家族よりも会社の事業とか、会社は納税して純資産を貯めて、公器になってもらえれば、それが一番いいという考えでした。そういう企業観の二人でしたので、今回はこういう取引になりました。

それで、色々ありましたけれど、株をDeNAさんに売りました。幸せというのは、お金を得ることではなく、自分が必要とされていて、毎日行く所がある、そういうことが一番幸せなんだなというのを、私の立場から見させてもらい、また勉強させてもらったと思っています。

残り30分になってまいりましたので、段々と、ファイナルに向かって行きつつ、質問に答えていこうかなと思っていますので、もう少しお話を進めます。「アドバイスがあるとすれば」という所ですが、私は「任せる」というのがすごく大事なことなのではないかなと思います。と言いますのは、やる気がある人ほど、やはり色々な提案をして、色々な新しいことをやりたいと思うのは当たり前のことです。それを両親の目から見ると考えが甘かったりと、色々とあるとは思いますが、自分の尻拭いが出来る範囲で失敗させてみるくらいの方がいいのではないかと、私はすごく感じます。

今となっては「たら・れば」の話ですが、私の父親に、私が大阪支店で仕事をさせてもらった時に、「この会社を分社してやるから、自分でやってみろ」と言われていたら、またちょっと違った展開になっていたんじゃないかなと思います。別に、そういうふうに言って欲しかったわけではないんですが、何故かというと、私は今の会社に一兵卒として入って、5年間で副社長になっています。それは、うちの会社の竹内や木村という人たちが、「任せる人」だったからです。任せてもらえるので、入社した後、認めてもらいたいからどんどん仕事をします。どんどんやるんだけれども、成功することもあれば、失敗することもあります。入社して1年目で、私は会社に300万円くらい損をさせました。皆はそう思っていないけれど、私はそう自覚しています。300万円損をさせてしまった、これは会社にもっと返そうという思いで、私は成長してきました。ですから、結果としてそれで認められているので、小さい失敗をさせて、大きく成長させることが大事です。小さい失敗をさせて、それでシュンとなってしまう人だったらもっと駄目ですし、もっと会社に貢献しなければ、という感じで成長させるというのが、私は一番いいのではないかと思います。後継者というのはレールが敷いてあって、その上を行けばいいような状態ではなくて、これからは大変化に対応していかなくてはいけない、レールのない道を行くわけですから、普段からこういうことをやらせると、いいのではないかと思います。

この場には、どちらかというと社長さんの方がお越しになっていると思いますので、後継者の方に伝えるべきことは、私は簿記2級くらいは絶対に取らせた方がいいと思います。別に資格を取ることが目的ではないのですが、一つの目標にもなりますし、財務諸表を読めるくらいでないと、経営者として話になりません。それから、これからは資金調達の知識が必要です。エアーリンクは無借金だったので、私は銀行と付き合ったことがありませんでした。今は20行くらいと付き合っていますが、最初は元利金等返済と、元金均等返済の違いが分かりませんでした。普通の会社は、元金均等返済で借ります。最初は、元金と金利が付くので、会社の場合は最初が一番辛いわけです。個人の住宅ローンなどは元利金等で払うので、8万円なら8万円でずっと払っていって、そのうちの利息の分が最初は大きいとか、そういったことは、エアーリンクのようなキャッシュフローのいい会社であれば必要ないかもしれないけれど、資金調達が重要な会社の方が多いと思いますので、その辺の知識を何らかの形で付けさせるということが大事かなと思います。それには実践が一番いいわけです。私は今、色々な経営者の方や後継者の方からご相談があると、そういうことを言っています。私自身も銀行との折衝を担当しているのですが、例えば同じ金利でも、10年返済で借りるのと、15年返済で借りるのでは、やはりキャッシュフローのインパクトが全く違います。金利が高くても15年返済を選ぶというようなことは、当然します。その辺は、PLとBSだけでなく、キャッシュフローというのが実は会社では大事なわけです。儲かっても、銭が足らならなかったら倒産してしまいますので、そういうことは経営者の方は一番良くお分かりだと思いますけれど、意外に後継者の方は、分かっていない人も多いのではないかなと思いますので、そういった点を何らかの形でお伝えするのが一番いいのかなと思います。

添付資料(印刷用にご利用ください)

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講師:瀧本 憲治(たきもと けんじ)

アーバンベネフィット(株) 取締役副社長

慶應義塾大学卒。大手コンビニエンスストアチェーン本部勤務を経て、中小企業の2代目候補として両親の創業した会社で働くも挫折。後継に臨む2代目、3代目の経営者に貢献したいと企業再生事業に参加。 中小企業の再生過程における事業用不動産や経営者の自宅などを競売前の任意売却で買い取り、これをリースバックする事業の立上げに参加。不動産のオフバランススキームやCREマネジメントの立案、投資家との関係構築を主業務とする。
資格:中小企業診断士、米国公認会計士、宅地建物取引主任者
日時・場所

2009年8月28日(木)
14:00~16:00

福岡商工会議所502号室
博多区博多駅前2-9-28
TEL 092-441-2161

参加募集中のイベント

お問い合わせください
募集中イベントについては、窓口までお問い合わせください。
電話 092-441-2161 まで

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